AYUMI(画家・イラストレーター)

 言い古された芸術家のステレオタイプは?とっつきにくい、社交性がない、執着と無頓着、そんな感じだ。そういう紋切り型はあゆみさんの第一印象には全く当てはまらなかった。それでも、“AYUMI”を目の当たりにしたとき「これをあの人が?」とはならなかった。今回わかったことは、彼女はやっぱり表現者ということ。それもゴリゴリの。

AYUMI(画家・イラストレーター)
作品の展示販売などをする傍ら、ライブペイントや店舗の内外装など、幅広い媒体へとイラストやデザインを展開している。ステンドグラスと絵を融合させた作品など、常に枠にはまらない独自のスタイルで表現しつづけている。 「SUMMERSONIC2011」「Handmade Korea Fair」などに参加。

「結局は自分を描いているから」


 芸術の見方や絵画の理論にガチ無知の僕でも、彼女の作品を観ていると色んな感情が豊かに浮かんでくる。例えば「Noo」。黒人の美しさを感させるこの一枚は、“ブラック・ムービーの父”メルヴィン・ヴァン・ピープルズの半生を描いた映画「バッドアス!」のワンシーンからインスパイアされている。というか、ほとんどその空気を再現している。ブラック・ミュージックが好きならきっと刺さる。

 「静と動と場所と時間-Mori-」を眺めると、僕にはChoklateと いうソウルシンガーのメロウな歌が聞こえてくる。これは、屋久島を旅したときに感じた森や自然への畏怖がベースになっているらしい。彼女があらゆる動機や 想起を基に生み出した作品から、観客は自分の中の何かを引っ張り出して、メロディーや風景、過去の経験といったものに結びつけていく。


 作品のインスピレーションは媒体を問わないらしいがAYUMIは女性をよくモチーフにする。自分の感情や思いが高まって書きたい!となったときに「その強く美しく人間らしい表情」をキャンバスに投影するという。なぜ女性なのと聞
くと、「結局は自分を描いているから」と返ってきた。


静と動と場所と時間 -Mori-



 鬱屈から逃れる翼が、彼女の場合は描くことだった。


 「誰に見せるわけでもなく、小、中学のときからよく描いていた。家庭環境が悪くて、居場所がなかった。よく、団地の屋上で泣きながら絵を描いていた」と過去を振り返る。夢中になっている間は余計なことを考えずに済む。事の大小はあっても、誰にだってある経験だ。子供にはどうしょうもできないことが世の中には糞ほどもある。その鬱屈から逃れる翼が、彼女の場合は描くことだった。

 “そっち系”の高校に行きたがったが環境が許さず、結局“普通の”高校を中退。アパレルで働き出す。ここで販売をしながら、企画やデザインをやらせてもらえた事で


「欲が出てきて、自分の表現をしたいと思った」

 ここまで話を聞きながら、なかなかにゲトーな人生すね!と思わず言ってしまったが、実際自身にもゲトーの感覚はあって、だからこそ黒人にも興味を持っているという。



「現場」も彼女のキャンパスだ。


 そんな彼女が、アパレルをやめて将来を考えるためにブラっと行ったのがNYというのは必然だったのかもしれない。1ヶ月滞在したのはブロンクスじゃなくてマンハッタンのチェルシー。アートのメッカ。毎日ギャラリーを巡りながら「未来を考え、腹を決めた」。道ありきで、そこから目標や進路を決めるのが大半な日本社会にあって、彼女は真逆の、至極まっとうな手順を踏んだ。この後帰国、Masa Mode Academyに通い、キャリアを重ねていくことになる。

 08年頃からライブペイントも行うようになる。スキル+その場のヴァイブス。「とても刺激的」と話し、そこに普段とは違う化学反応が起きることを知った上で楽しんでいる。今、この集いにきている皆が生み出している「現場」も彼女のキャンバスだ。僕たちが楽しんでいれば、きっと素晴らしい作品が生まれている。



 ミニマムで最強のアートフォームがあった。


 何をしてAYUMIをゴリゴリと表したか。前述したように彼女の作品もしくはそれらの制作秘話を聞いていると、ストンと腑に落ちる感覚がある。この人の作品には嘘とか利己とか 妥協が無い。表現者ってのはガチンコで自分と向き合ってメッセージを伝えようとしている人間のことじゃないかと思う。だからリアルを感じる。彼女の作品にも、その“母体”たる本人にも人を惹きつける力が漲っている。

 屋上で泣いていた女の子にはミニマムで最強のアートフォームがあった。結局、その子はそのまま大きくなった。かつて自分を救った「絵」という表現が誰かの救いにもなりえると思いながら、彼女はこれからも筆を握る。





 

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